昭和43年6月28日 夜の御理解



 26日の土居の共励会の翌日から、まさきさんが朝参りをしてきておりますが。何か感ずるところがあったのだろうと私は思とったら、あの、親子三人でお礼に出てまいりましてから、その時に、お届けしておりましたが「先生、私はほんとにあの、誰からも、それこそ、ずんずんと言われてもですね、全然自分の心に受け入れるということができなかった」ち言うたんですね。
 どんなに雄弁に、それ、ずんずんと、あの例えば、まさきさん参ってくる参ってくると言われてもですね。ところが「ほんとにあの、夕べの共励会でおかげ頂きました」てこう言うんですね。そしてあの、(?)若先生が一言何か、私は何聞いたか分からんですけれども、一言言われたその一言がもう、ほんとに心に響いた、とこう言いますね。
 またあの、原さんが言うておられたが、ほんとにあの、末永さんのお話しになった一言が、もうたいへんおかげを頂いたと言うて、明くる日、お届けがあっとったんですけれども。
 話を上手にしたとか、雄弁に語ったとかと言うのではなくてですね。結局その、純粋なものですね。至純なもの。それがやっぱり人の心を、に響いて行くんだ。大坪勝彦のね。
 そういう意味で、あの三代金光様なんかのお取次のご様子なんかを拝ませて頂いておりますと、もうほんとに至純なものだったと思いますね。もう、単純て言うたらこんなに単純なものはないですよね。ただ「はいはい」ですもん。けどその中にです、もう実にその、純真なもの。
 あの何かの映画会社が金光様の、まあ一日といったような、なんかあの、映写機です、写した事があったそうですがね。それにもう金光様は、もうその、もうほんとに名優だ、て言うたちゅうんですね。それがもう一つも自然でね、良く写してもらおうとか、(むごい?)態度をとるとかっていうことがありなさらんというんですね。もう当たり前の事当たり前のままにその、お出しになられる。もう、名、金光様は名優だ、と言うたと言う話聞いたことがありますけれども。
 私どもの場合なんかはね、よう聞かせようとか、分からせようとかね。そこにもうすでに、人情があり人間心がある。そこに私どものおかげの頂けないものがあるんじゃないかと思うのですね。ですから私どもは、ほんとにその純度の高い信心を目指して、やはり至純なもの、ね、それを目指しての信心。その過程においては、やはり、様々なところがありましょうけれども、まあ金光様達の場合は、もう抜けるとこ、抜けられとるとこ通られてからの、あの、純真さというものでございましょうしね。
 そして今、若先生やら、末永さんがお話の中からおかげを受けた言うのも、これは、ほんの今、今がほんの純なところだからじゃないかとこう思うんですね。ですから、通るとこ通らせてもろうてから、純になって行く、というようなものを、が尊いんですけれども。
 至純と、また純と、こういうようなことを申しますが。純なものは、そのように自分の心に伝わって行く。至純、純ということはね、結局、どういうことかと言うと、やはり、人情が挟んでないということでございましょうけれどもね。
 「花は紅、柳は緑」というような言葉がありますが、もう、そのまま、ずばりのことだとこう思うんですね。純な、ね、そういうと本当にあの、高芝さんから何かいろいろ非難がありますけれども。ほんとにある意味変なところがありますよね。もう単刀直入、そのままずばり。
 ですから、ある場合は気が付いたこともあるけれども、それにあって非常に人が導かれたり助かったりするような場合もある。ね。だから私どもほんとうにこの、純度をいよいよ高めて行かなければならんと思うですね。それにはまずひとつ、人情、人間心をいよいよ抜かなければ、頂けませんですね。どうぞ。


明渡 孝